2009年12月25日金曜日

横浜外国人墓地


ペリーは開国交渉のため、1854年(嘉永7年)に再来日した。
その時に、ミシシッピー号の乗組員ロバート・ウィリアムズという24歳の
二等水兵が墜死した。
この水兵の埋葬地と共にアメリカ人用の墓地を「海の見える地」を
条件に、ペリーは幕府に要求した。
幕府は横浜村の増徳院(現在の元町一丁目から入った所にあったが
大震災で全焼した)の境内の一部を提供した。
ウィリアムズはここに埋葬された。
これが横浜山手の外国人墓地の始まりとなった。
日米和親条約によって、伊豆下田の玉泉寺に米国人用墓地が作られることになり、
ウィリアムズの遺体はこの3ヶ月後に移された。
現在、玉泉寺にはペリー艦隊の日本遠征中に死亡した水兵らアメリカ人5名、ロシア人3名が
埋葬されている。
関東大震災の後に増徳院も平楽に移転して、横浜外国人墓地は現在のような
22区5600坪(約18,500㎡)の墓域となった。
また関東大震災により、大半が焼失した埋葬記録も、
最近になって4800柱を越す記録となったが、墓石数は2500程度となっている。

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