2009年12月25日金曜日
同潤会アパート跡(現、レイトンハウス)
表参道にも残る高級文化住宅、関東大震災後に発足した
財団法人同潤会が東京・横浜に建設した鉄筋コンクリート造の
集合住宅で電気・都市ガス・水道・ダスト・シュート・水洗式便所など
最先端の近代的な設備を誇っていた。
山手公園
1866年(慶応2)に外国公使団との間に
「横浜居留地改造及競馬場墓地等訳書」(慶応訳書)が結ばれ
居留地外国人専用の遊園地が要望されましたが造成には至らなかった。1869年(明治2)明治政府は山手妙光寺付近の土地六千坪を
新たに代替場所として貸与し公園として造成が始まった。
居留地発行の新聞「ジャパン・ヘラルド」の編集者ジョン・ブルークが
インドから日本初のヒマラヤ杉を持ち込んで植えるなど公園の造成は
居留地外国人が行った。我が国最初の洋式公園として歴史に名を残す「山手公園」は1870年(明治3)に完成し、フラワーショー、野外音楽会、
テニス大会など居留地外国人専用の社交場として使われた。
2003年(平成15)国の「名勝」に指定された。
「横浜居留地改造及競馬場墓地等訳書」(慶応訳書)が結ばれ
居留地外国人専用の遊園地が要望されましたが造成には至らなかった。1869年(明治2)明治政府は山手妙光寺付近の土地六千坪を
新たに代替場所として貸与し公園として造成が始まった。
居留地発行の新聞「ジャパン・ヘラルド」の編集者ジョン・ブルークが
インドから日本初のヒマラヤ杉を持ち込んで植えるなど公園の造成は
居留地外国人が行った。我が国最初の洋式公園として歴史に名を残す「山手公園」は1870年(明治3)に完成し、フラワーショー、野外音楽会、
テニス大会など居留地外国人専用の社交場として使われた。
2003年(平成15)国の「名勝」に指定された。
SJIS : セント・ジョセフ・カレッジ跡
元町公園
元町公園は1930年(昭和5)に開園した由緒ある公園。
開港期のフランス人商人ジェラールが山手の湧き水を寄港する船に
給水する事業を興し「水屋敷」と呼ばれ、
後にジェラール瓦と呼ばれる西洋瓦やレンガを製造する工場を
1874年(明治6)に建て「煉瓦屋敷」とも呼ばた。
「煉瓦屋敷」と山手80番館も関東大震災で壊れその遺構が今も
元町公園に残っている。
大正に入り大正活映撮影所が作られましたが3年ほどで解散した。
跡地は元々水が豊富だったこともあり1928年(昭和3)にプールが作られ、
1930年(昭和5)に公園として開園した。1936年(昭和11)幻の東京オリンピック(1940、皇紀2600)を
目指した飛び込み台付きオリンピック級プールに改修され、
戦後に数度の改修を受けて今に至っている。またプールの裏手には市営の弓道場がある。
山手聖公会教会
1859年(安政5)に横浜在住の英国人が山下町横浜天主堂にも
近い前田橋付近に設立したギャリソン教会が前身で日本最初の
プロテスタント教会(クライストチャーチ)です。
1864年(文久3)鹿鳴館で有名なジョサイア・コンドルの設計により
煉瓦作りで山手の現在の場所に移転され、
1923年(大正12)関東大震災で倒壊した後、
1931年(昭和6)にJ.H.モーガンの設計で建て直され10~11世紀の
イギリスノルマン風様式がとり入れられている。
太平洋戦争の戦災による教会内部の焼失に会い1947年(昭和22)
修復されました、外壁の大谷石には空襲の傷痕が今でも残っている。
2005年(平成17)の火災の後に一部が建て直された。
ブリキのおもちゃ博物館
アメリカ山公園
横浜外国人墓地
ペリーは開国交渉のため、1854年(嘉永7年)に再来日した。
その時に、ミシシッピー号の乗組員ロバート・ウィリアムズという24歳の
二等水兵が墜死した。
この水兵の埋葬地と共にアメリカ人用の墓地を「海の見える地」を
条件に、ペリーは幕府に要求した。
幕府は横浜村の増徳院(現在の元町一丁目から入った所にあったが
大震災で全焼した)の境内の一部を提供した。
ウィリアムズはここに埋葬された。
これが横浜山手の外国人墓地の始まりとなった。
日米和親条約によって、伊豆下田の玉泉寺に米国人用墓地が作られることになり、
ウィリアムズの遺体はこの3ヶ月後に移された。
現在、玉泉寺にはペリー艦隊の日本遠征中に死亡した水兵らアメリカ人5名、ロシア人3名が
埋葬されている。
関東大震災の後に増徳院も平楽に移転して、横浜外国人墓地は現在のような
22区5600坪(約18,500㎡)の墓域となった。
また関東大震災により、大半が焼失した埋葬記録も、
最近になって4800柱を越す記録となったが、墓石数は2500程度となっている。
岩崎博物館(ゲーテ座)
トワンテ山 イギリス館
港の見える丘公園
フランス山 フランス領事館跡
幕末時代から明治時代までフランス軍が駐屯していた場所として
フランス山と名付け、1894年(明治27年)にフランス人サルダと言う
建築家がフランス領事官邸を設計・建築し、
1896年(明治29年)に「極東一のすばらしい名建築のひとつ」
(フランス領事から本省あて報告書)」が完成した。
外観からも煉瓦造り二階建てのフランス領事館は華麗な意匠の
堂々としたものだった。
だが、領事館と領事官邸は、1923年(大正12年)の
関東大震災で倒壊してしまった。
その後、1930年(昭和5年)にスイスから来た建築家マックス・ヒンデルの手によって、
倒壊された領事官邸が旧領事官邸跡に再建されたが、
1947年(昭和22年)の不審火により全面焼失してしまった。マックス・ヒンデルが建築した領事官邸の
構造は建築家サルダが建築したものと違って、
1階部分が煉瓦で造られ2階3階は木で造られていた為、火が回るのが早かった。
今現在は、港の見える丘公園の中の一区間のフランス山にフランス領事館跡地が残っている。
今現在のフランス領事館は場所を転々として、南麻布に場所を移動している。
また、フランス領事館遺構の傍に風車が建っているが、これはまだフランス領事館が建っていた頃に井戸水を汲み上げるために用いられたものである。
当時の山手はまだ上水道が出来ていなく、経済面のことを考え井戸水汲み上げ用の風車が
出来たとされる。今現在の風車は再現されたものだが、辺りを見回してみると、その当時の歴史を
感じさせられるほどのものがある。またそこから港の見える丘公園方面へ向かっていく途中に、
煉瓦造りの井戸遺構がある。
横浜ボウリング発祥の碑
861年(文久元年)6月22日、日本で最初にボウリングが伝わったのは
長崎である。 当時長崎で発行された社交サロン店主
ヘンリーギブソンが新装開店を告知した広告に記録が残っている。
これが日本で最初のボウリング場である。ボウリング場はスナックバー風の設備も整っていて、
外国人たちの社交の場とレクリェーションの場となっていたのである。
現在、これを記念して、6月22日が「ボウリングの日」とされている。
2番目にボウリング場ができたのは、3年後の1864年(元治元年)、
横浜である。 今現在、開港当時外国人居留地であったフランス山公園に石碑がある。
これは平成7年に、横浜初としての「横浜ボウリング発祥の碑」が建てられた。
フランス領事館メダリオン (RF : Republique Francaise)
機械製氷発祥の地
横浜村が開港してからまもなく横浜港に氷が輸入されてきた。
また当初の氷はボストンと函館の氷が輸入されていたが、
ボストンの氷は横浜まで長時間掛かるため高価な氷とされていた。
その氷で元町周辺の居留地で商売をしていた外国人も居たほどである。
そして、函館からの氷は、頻繁な外国船の出入と言う海運の利便さが大きく横浜や東京に輸入された。
日本人では中川嘉兵衛が1864年の11月に「氷売り込み」を出願し、
氷の切り出しから各地で試みて失敗したが、1869年に函館氷の出荷に
初めて成功する。日本の機械製氷の歴史は福沢諭吉が熱を出したことが始まりとされている。
また、1879年には元町周辺にオランダ人ストルネブリンクが経営していた横浜初めての機会製氷工場が創業した。その後も経営者は何度か変わったが、関東大震災の1923年まで経営を続けていた。
ヘボン博士(ローマ字のヘボン)邸跡
1859年(安政6年)にJ.Cヘボンが医療・伝道活動を目的として来航した。ヘボンは施療事業と共に日本語の研究を行って日本で最初の和英辞典だった「和英語林集成」を編修し、「美国平文」と言う名前で出版した。これが日本最初の和英辞典であった。日本語を転写することによって採用したのが英語式の転写方法であり、また、辞典が普及すると同時にヘボンによって書かれた文字「ヘボン式ローマ字」も広まっていった。ヘボンは辞典だけではなく旧約聖書や新約聖書の和訳についても活躍を治めた。また、キリスト教主義教育を日本に根付かせることを望み、1863年(文久3年)に横浜にヘボン塾を開設した。その後のヘボン塾は、他のプロテスタント・ミッション各派学校と連携し、1887年(明治20年)に明治学院として統合し、明治学院初代総理に就任した。
増徳院(薬師堂)
パン発祥の地(ウチキベーカリー)
日本で始めて、パンの製造を始めたの日本人である。
フランス軍艦ドルドーニュ号乗り組みのコックから手ほどきを受け、
日本の小麦粉で「ゆでだんご」のようなパンを焼いた。
1860年、「お貸長屋」(現在の横浜開港資料館の辺り)で、
「パンのような焼饅頭のようなものパン」を焼き、「和風パン屋」として
開業する。その日本人が内海兵吉であると言われている。
1861年(文久元年)に開業するが、11月グッドマンの家が全焼し、
翌年2月に「横浜最初のヨーロッパ風パン屋」を新規開店する。
1864年、グッドマンは病気のため一時日本を離れるので、その間、ロバートクラークに任せた。
グッドマンは1865年に再び来日し、営業を再開している。
1865年(慶応元年)8月、ロバートクラークは横浜で「横浜ベイカリー」を開き、35年パンを焼き続けた。その後、「横浜ベイカリー」は色々な説があるが、1875年(明治8年)に打木彦太郎が継承したのである。その後、宇千喜麺麭製作所と称する。そのパン屋が、元町にあり、今も営業している「ヨコハマベーカリーウチキ商店」である。
元町公園 塗装発祥の地
1854年(嘉永7年)2月13日、ペリー再来航の際、林大学頭が江戸の
渋塗職人町田辰五郎に通商交渉を行う横浜応接所
(現在の横浜外交資料館付近)建物外部のペンキ塗装を命じて、
これがきっかけで、町田辰五郎は幕府からペンキの一手取り扱いと、
外国公館(領事館・公使館)塗装の特権を与えられた。
1856年(安政3年)にアメリカ総領事ハリスは、
神奈川宿本覚寺を領事館と定め、本覚寺をすべて白ペンキで塗った。これを機に、本覚寺に「全国塗装業者合同慰霊碑」が建立された。 1865年(慶応元年)に大工のT.S.スミスが塗装業を始めた。日本人では伊藤幸太郎と桜井鉄五郎が
ペンキ塗装業を始め、1872年(明治5年)鉄道建設の停車場の工事を請け負った。
長崎の湊公園には、「近代塗装伝来之碑」があり、碑文によれば、本格的なペイント塗装は、
幕末から明治初年にかけて導入された洋風建築に始まり、18世紀半ば頃には、すでにペイント塗装が行われていた。また、元町公園にある我国塗装発祥地いわゆるペンキ発祥の記念碑と、元町公園とは何ら関係がない為、何故元町公園に建てられたか、いまだに分かっていない。
ジェラール水屋敷地下水槽
元町公園 大正活映撮影所跡
代官屋敷
幕末開港前後、横浜村名主、当主石川徳右衛門は、
日米和親条約締結の為応接場の設営、食料、
その他の設備一切を掌りました。
嘉永7年(1854 年)4月6日ペリーが横浜村に上陸し、
住民の暮らしぶりを視察した折に屋敷を訪れ、
徳右衛門が供応した様子が、ペリー提督日本遠征記,に記されている、 その後徳衛門は横浜町惣年寄となり
町政を担当するようになった、
代官坂の名は坂の途中にある横浜村の元名主石川家に由来している。
横浜村周辺は、開港期には神奈川奉行預かりとなり石川家は代官ではなかつたが、
ペリーが横浜村名主を町長と考え表啓訪問した為に呼ばれるようなったなどのいくつかの
言い伝えがある。それで明治20年代から、石川家が代官屋敷、
旧箕輪坂が代官坂と呼ばれる様になった。
石川家は石川町の町名の由来でもある。
2009年12月24日木曜日
下長屋跡(元町仲通り、元町5丁目土方坂)
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