2009年12月25日金曜日

同潤会アパート跡(現、レイトンハウス)


表参道にも残る高級文化住宅、関東大震災後に発足した
財団法人同潤会が東京・横浜に建設した鉄筋コンクリート造の
集合住宅で電気・都市ガス・水道・ダスト・シュート・水洗式便所など
最先端の近代的な設備を誇っていた。

西洋歯科医学発祥の地


米国人ウィリアム・ストレーキ博士が日本初の歯科医療所を始めた地

天主堂跡


1862年(文久元年)居留地外国人への布教のため
日本初のカトリック聖堂が山下町80番に建てられた跡、
後に山手に引っ越し山手カトリック教会になる。
記念碑は一時期ビル造成のため谷戸坂に避難したことがあり、
設置場所が何度も変わっている。

明治の下水管


政府が招聘したイギリス人土木技師
リチャード・ヘンリー・ブラントンにより設置された日本初の下水管。
中土木事務所以外にも、日本大通の情報文化センター裏手の庭に
同様の下水管とガス管がある。

新聞発祥の地


1864年(元治元年)海外情勢を伝えるためジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)が
外国新聞を翻訳編集して、日本初の邦字新聞「海外新聞」を
発刊した。関帝廟横の重慶飯店歩道沿い。

互楽荘跡


昭和初期の高級アパート、スペインのような中庭と回廊を持ち、
モダンな共同生活スタイルと先進的な設備は当時人々の憧れの的になった。
現在の六本木ヒルズのような億ションのイメージ。
終戦時は米軍に接収され慰安施設に使われた時期があった。

居留地消防隊と消防車

火災があったが日本の破壊消防(火消し)では無理なことから、
居留地消防隊の結成が求められた。
香港上海銀行のサーディン氏などにより日本初の消防車が
輸入され我が国初の消防隊が結成された。

大砲


この地あった倉庫会社から引き継がれたもので
2門の内1門は開港記念館に保存されている。
伝承では「ペリー来航の際に小倉の2藩に護衛を命じ、
松代藩がオランダ製野戦砲2門を持ち出したが、
脅威と映らないように埋められた」とある、倉庫造成の際に出土し
倉庫横歩道に飾られていた。

ホテル発祥の地


1860年(万延元年)オランダ人船長C.J.ヘフナーゲルにより、
日本初の「ヨコハマホテル」が開業した。
山下町70番のレストランかおり入り口に碑がある。

電話交換創始の地


1890年(明治23年)横浜電話交換所で日本初の交換業務が、
4人の交換手により始まる。電話は交換手に相手の電話番号を告げて
パッチボードでつないでもらうものだった。

居留地消防隊の地下貯水槽



1871年(明治4年)から1899年まで外国人居留地は、
独自の消防隊を結成していた。防火水槽が設置され100年ほど使用された。

日本初のバプテスト教会


横浜海岸教会は、1872年(明治5年)に設立された日本で最初のプロテスタント教会、明治8年(1875)鋳造の鐘を今も開港広場に鳴り響かせている

電信発祥の地


横浜電信局と東京電信局で初めて電報の取扱が行われ、
電波模様の石碑が横浜地方検察庁の玄関脇に設置されている。

ブラフ18番館


当初山手町45番地に建てられ、戦後カトリック山手教会の
司祭館として平成3年まで使用されてきた。
同年解体されることになったため、横浜市が部材の寄付を受け、
イタリヤ山庭園内の現在地に移築復元された。
建物は震災の経験を生かし、防火を考慮した仕上げとなっている。

外交官の家


もともとはニューヨーク総領事も勤めた外交官の内田定槌私邸で、
1910年(明治43年)に渋谷の南平台に建てられました。
内田定槌が外交官だったことから「外交官の家」と呼ばれるようになった。 この「外交官の家」を横浜市が内田定槌の孫にあたる宮入氏から
寄贈を受け、ここへ移築復元しました。
移築復元工事は1995年(平成7)から1997年(平成9)まで行われ、
完成と同時に国の重要文化財の指定を受けている。

イタリア山公園


1880年(明治13年)から1886年(明治19年)にかけて
この場所にイタリア領事館があったことから、「イタリア山」と
呼ばれるようになり公園名の由来となった。
「山手イタリア山庭園」は近代的な西洋風庭園に造成されており、
庭園敷地内には「外交官の家」や「ブラフ18番館」などの洋館も
移築されて、山手の新名所となった。 庭園内には喫茶室も
数カ所設けられ、また日曜画家の名所としても知られている。

テニス発祥の地


我が国最初の洋式公園として歴史に名を残す「山手公園」は
1870年(明治3)に完成しました。最初のテニスは横浜の居留地外国人専用の
レクリエーションの場として、この「山手公園」に1878年(明治10)
レデース ローン テニス アンド クロッケークラブ(現在の横浜インターナショナルテニスクラブ)が
5面のテニスコートを建設したことに始まる。
この記念碑は1978年(昭和53)クラブ設立100周年を記念して、
グラウンドで使われていた石の整地用ローラーを削って作られ、
側面から見るとローラーと判別できる。

山手カトリック教会


1961年(文久1)パリ外国宣教会が居留地80番に
日本で初めてのキリスト教会(横浜天主堂)を建てた後、
1906年(明治39)に塔を二つ持つ煉瓦造の聖堂を山手44番に建設し
活動の拠点を移したものが、カトリック山手教会のはじまり。
1923年(大正12)の関東大震災により完全に崩壊し、
1933年(昭和8)に地元関工務店によって高い尖塔アーチの鐘塔を持った
典型的なゴシック様式に再建された。
カトリック山手教会は、日本一美しい聖堂と言われている。

山手公園

1866年(慶応2)に外国公使団との間に
「横浜居留地改造及競馬場墓地等訳書」(慶応訳書)が結ばれ
居留地外国人専用の遊園地が要望されましたが造成には至らなかった。1869年(明治2)明治政府は山手妙光寺付近の土地六千坪を
新たに代替場所として貸与し公園として造成が始まった。
居留地発行の新聞「ジャパン・ヘラルド」の編集者ジョン・ブルークが
インドから日本初のヒマラヤ杉を持ち込んで植えるなど公園の造成は
居留地外国人が行った。 我が国最初の洋式公園として歴史に名を残す「山手公園」は1870年(明治3)に完成し、フラワーショー、野外音楽会、
テニス大会など居留地外国人専用の社交場として使われた。
2003年(平成15)国の「名勝」に指定された。

ユニオン教会


日本で最初の外国語によるプロテスタント集会で、
1863年以来約40年間近く諸宗派間、各国の教会信徒が集まって
様々な場所で礼拝を続けていた。
最初の教会は1910年に山手49番に建てられたが、
1923年の関東大震災により崩壊した。山手66番に移り
コミュニティハウスとして教会信徒の集会や礼拝に使用されていたが、1945年のアメリカの空襲により焼失し、
教会としては最近まで荒廃したままでした。
山手66番にある現在の横浜ユニオン教会は2003年に新しく建てられたもの。

エリスマン邸


エリスマン邸は当初山手町127番地に建てられましたが、
昭和57年マンション建築のため解体され、
平成2年に現在地に再現された。
設計は、多くの日本人建築家を育てて日本で叙勲を受けた
アントニン.レーモンドで、師匠である世界的建築家
F.L.ライト(旧帝国ホテル設計)の影響が細部意匠に見られ、
異人館的要素を持ちながら特異な西洋館になっている。
建築主エリスマンは、戦前最大の生糸貿易商シーベルヘグナー商会の横浜支配人でした

SJIS : セント・ジョセフ・カレッジ跡


セント・ジョセフ・カレッジ(Saint Joseph College)は、山手にかつて存在したインターナショナルスクール。
1859年の横浜開港に伴い、山下町・山手周辺に外国人居留地が、
関内にはその居留者の業務地が設けられ、これらの地に暮らす
外国人子弟の教育施設として、1901年にカトリック教会のマリア会に
よって、幼稚園から高校までを備えた英語教育主体の
インターナショナルスクールとして開校された。

ベーリックホール


ベーリック・ホールはセント・ジョセフ校の牧師館や
寄宿舎として使われたことで知られ、現存する山手の旧外人住宅の
中ではもっとも大きい建物。
建築家J.H.モーガンの代表作のひとつで、
スパニッシュ様式で多彩な外部装飾をもち、
室内もバンケットルームに使われた大広間が設けられている。
建築主のB.R.ベーリック氏はイギリス人で1898年来日し、
横浜とロンドンの両都市に住みながら貿易商として活躍した

山手234番館


外国人向け共同住宅(アパートメントハウス)として
建築されたこの建物は、往時のモダンな生活様式が伺える。
また洋風住宅として標準的な簡素な作りとなっており、
関東大震災後の洋風住宅意匠の典型と言える。

元町公園


元町公園は1930年(昭和5)に開園した由緒ある公園。
開港期のフランス人商人ジェラールが山手の湧き水を寄港する船に
給水する事業を興し「水屋敷」と呼ばれ、
後にジェラール瓦と呼ばれる西洋瓦やレンガを製造する工場を
1874年(明治6)に建て「煉瓦屋敷」とも呼ばた。
「煉瓦屋敷」と山手80番館も関東大震災で壊れその遺構が今も
元町公園に残っている。
大正に入り大正活映撮影所が作られましたが3年ほどで解散した。
跡地は元々水が豊富だったこともあり1928年(昭和3)にプールが作られ、
1930年(昭和5)に公園として開園した。1936年(昭和11)幻の東京オリンピック(1940、皇紀2600)を
目指した飛び込み台付きオリンピック級プールに改修され、
戦後に数度の改修を受けて今に至っている。またプールの裏手には市営の弓道場がある。

山手聖公会教会


1859年(安政5)に横浜在住の英国人が山下町横浜天主堂にも
近い前田橋付近に設立したギャリソン教会が前身で日本最初の
プロテスタント教会(クライストチャーチ)です。
1864年(文久3)鹿鳴館で有名なジョサイア・コンドルの設計により
煉瓦作りで山手の現在の場所に移転され、
1923年(大正12)関東大震災で倒壊した後、
1931年(昭和6)にJ.H.モーガンの設計で建て直され10~11世紀の
イギリスノルマン風様式がとり入れられている。
太平洋戦争の戦災による教会内部の焼失に会い1947年(昭和22)
修復されました、外壁の大谷石には空襲の傷痕が今でも残っている。
2005年(平成17)の火災の後に一部が建て直された。

山手資料館


1909(明治42)年に建てられ1977年(昭和52)この地に移築された西洋館で、
明治から大正時代の横浜の日常的な資料を集めた資料館。
開港当時の様子を描いた錦絵(横浜絵)やマンガの原型と言われるポンチ絵から、
日用品としてのギヤマン、オルガン、蓄音機や開港当時の生活を伝える家具や
食器などが収集されている。
1923年(大正12)の関東大震災の時に、横浜の木造洋館の中でこれだけが
唯一倒壊/焼失を免れた貴重な建物。

ブリキのおもちゃ博物館

古い洋館を改装したおもちゃの博物館で、
1890年代から1960年代にかけて主に日本で製造された
セルロイド製やブリキ製のおもちゃ約3,000点を常設展示している。
テレビの「お宝鑑定団」でおなじみの北原照久さんが
1973年ごろから収集した約16.000点の個人的なコレクションの一部が
展示されている。

アメリカ山公園


アメリカ山公園は、1858年の日米修好通商条約締結後
150年となる2009年、開港150周年を記念した施設として
全国初の「立体都市公園制度」を活用して造成され開園した。
ここ山手97番地は明治期初頭の米国公使館ゆかりの土地であり、
太平洋戦争後、米軍の施設用地として利用され1971年に返還された
歴史を持つことから「アメリカ山」と名付けられた。
みなとみらい線「元町中華街駅」駅舎を4階建てに増築し、
エスカレーターやエレベーターなどの昇降施設を設置して、
18mの高低差がある元町地区と山手地区のバリアフリー化を図りアメリカ山公園口(6番口)が新設された。

横浜外国人墓地


ペリーは開国交渉のため、1854年(嘉永7年)に再来日した。
その時に、ミシシッピー号の乗組員ロバート・ウィリアムズという24歳の
二等水兵が墜死した。
この水兵の埋葬地と共にアメリカ人用の墓地を「海の見える地」を
条件に、ペリーは幕府に要求した。
幕府は横浜村の増徳院(現在の元町一丁目から入った所にあったが
大震災で全焼した)の境内の一部を提供した。
ウィリアムズはここに埋葬された。
これが横浜山手の外国人墓地の始まりとなった。
日米和親条約によって、伊豆下田の玉泉寺に米国人用墓地が作られることになり、
ウィリアムズの遺体はこの3ヶ月後に移された。
現在、玉泉寺にはペリー艦隊の日本遠征中に死亡した水兵らアメリカ人5名、ロシア人3名が
埋葬されている。
関東大震災の後に増徳院も平楽に移転して、横浜外国人墓地は現在のような
22区5600坪(約18,500㎡)の墓域となった。
また関東大震災により、大半が焼失した埋葬記録も、
最近になって4800柱を越す記録となったが、墓石数は2500程度となっている。

岩崎博物館(ゲーテ座)


もともとは(1870/明治3年創立) の創始者オランダ人
ヘフトにより横浜本町通りに建てられた商業劇場ゲーテ座が
オリジナルです。
続いて横浜在住外国人達の発案のもとにフランス人建築家サルダの
設計によって1885(明治18)年に現在の位置にゲーテ座が建てられた。
しかし1923(大正12)年、関東大震災によってこのゲーテ座は崩壊し
近年まで資料すら見つからない状態でした。
この跡地に1980(昭和55) 年、学校法人岩崎学園の創立50周年記念事業の一貫として、
服飾関係の資料、収集品を中心に展示する博物館として復元されたもの。

県立近代文学館

県立神奈川近代文学館は港の見える丘公園内に、
財団法人神奈川文学振興会により1984年(昭和59)建設された。
神奈川県は開港以来歴史の中でとりわけ多くの文人に親しまれた土地柄で、
神奈川県にゆかりの深い文豪である夏目漱石、
大彿次郎、大岡昇平や、日本の文壇を彩った文人として
著名な芥川龍之介、川端康成、谷崎潤一郎、三島由紀夫などの資料を収集、
保管している。

大佛次郎記念館

横浜に生まれ「鞍馬天狗」、「パリ燃ゆ」、『霧笛』、『幻燈』など、
文明開化の横浜を描いた作家で、横浜と猫をこよなく愛し
昭和48年に亡くなった大佛次郎(おさらぎじろう)の資料を集めた記念館。 蔵書や直筆原稿などの展示や業績、生涯を紹介しており、
2階には鎌倉の書斎と寝室が復元されている。

トワンテ山 イギリス館

1937年(昭和12)上海の大英工部総署の設計によって
トワンテ山(駐屯していた英国第20連隊の英語発音「トゥエンティ」が
鈍って「トワンテ」になった典型的な横浜英語/サムライ英語)に
英国総領事公邸として建てられ、1969年(昭和44)からコンサートや
集会室に利用されてきた。
1990年(平成2)に横浜市指定文化財に指定され、
2002年(平成14)にリニューアルを行い資料展示室等が設けられた。
1階ホールはコンサートホールに2階集会室は会議等に利用され、
一般にも開放されている。

山手111番館


この住宅は東側に傾斜した地形を巧みに利用して建てられ、
西側の正面から見ると2階建てになっている。
設計者は建築家モーガンで小規模ながら豊かな空間が創り出されています。 建築主はラフィンと言われ外人両替商でした。

港の見える丘公園


1959年(昭和34)当時の横浜市長半井氏により山手地区
風致公園として開園した。
港の見える丘公園は開港当時外国人居留地であり、
横浜開港期に現在の港の見える丘公園南東側(トワンテ山)あたりに
駐屯したイギリス軍と、北西側の「フランス山」に駐屯したフランス軍とが
隣り合い互いに張合っていたことで知られている。
イギリス館、大佛次郎記念館、神奈川近代文学館、バラ園などの
付帯施設が次々とオープンし現在の港見える丘公園を形作っている。
一時期、樹木が茂りすぎ「港の見えない丘」と言われたことから植裁を中心に大改造された。

フランス山 フランス領事館跡


幕末時代から明治時代までフランス軍が駐屯していた場所として
フランス山と名付け、1894年(明治27年)にフランス人サルダと言う
建築家がフランス領事官邸を設計・建築し、
1896年(明治29年)に「極東一のすばらしい名建築のひとつ」
(フランス領事から本省あて報告書)」が完成した。
外観からも煉瓦造り二階建てのフランス領事館は華麗な意匠の
堂々としたものだった。
だが、領事館と領事官邸は、1923年(大正12年)の
関東大震災で倒壊してしまった。  
その後、1930年(昭和5年)にスイスから来た建築家マックス・ヒンデルの手によって、
倒壊された領事官邸が旧領事官邸跡に再建されたが、
1947年(昭和22年)の不審火により全面焼失してしまった。マックス・ヒンデルが建築した領事官邸の
構造は建築家サルダが建築したものと違って、
1階部分が煉瓦で造られ2階3階は木で造られていた為、火が回るのが早かった。
今現在は、港の見える丘公園の中の一区間のフランス山にフランス領事館跡地が残っている。
今現在のフランス領事館は場所を転々として、南麻布に場所を移動している。
 また、フランス領事館遺構の傍に風車が建っているが、これはまだフランス領事館が建っていた頃に井戸水を汲み上げるために用いられたものである。
当時の山手はまだ上水道が出来ていなく、経済面のことを考え井戸水汲み上げ用の風車が
出来たとされる。 今現在の風車は再現されたものだが、辺りを見回してみると、その当時の歴史を
感じさせられるほどのものがある。またそこから港の見える丘公園方面へ向かっていく途中に、
煉瓦造りの井戸遺構がある。

横浜ボウリング発祥の碑


861年(文久元年)6月22日、日本で最初にボウリングが伝わったのは
長崎である。 当時長崎で発行された社交サロン店主
ヘンリーギブソンが新装開店を告知した広告に記録が残っている。
これが日本で最初のボウリング場である。ボウリング場はスナックバー風の設備も整っていて、
外国人たちの社交の場とレクリェーションの場となっていたのである。
現在、これを記念して、6月22日が「ボウリングの日」とされている。
2番目にボウリング場ができたのは、3年後の1864年(元治元年)、
横浜である。 今現在、開港当時外国人居留地であったフランス山公園に石碑がある。
これは平成7年に、横浜初としての「横浜ボウリング発祥の碑」が建てられた。

フランス領事館メダリオン (RF : Republique Francaise)


今の元町商店街から港の見える丘公園へ向かう途中にフランス山と
呼ばれている1863年頃からフランス軍が駐屯していた場所でもある。
そこには、前にも紹介したかもしれないが、旧 フランス領事館跡があり、
その付近には橋が掛かっている。フランス領事館付近を再整備した際に
ジェラール瓦やフランス領事館の外壁装飾に使われていたと見られる
メダリオンが発掘された。
メダリオンとは、建物の左右の外壁に使用する飾りのことを主に言う。
フランス領事館のメダリオンは幾つも使用されていたとされているが、
関東大震災の被害で紛失し、今は一つだけフランス橋(みなとみらい線元町出口から降りて右手奥に掛かっている)に展示されている。

機械製氷発祥の地


横浜村が開港してからまもなく横浜港に氷が輸入されてきた。
また当初の氷はボストンと函館の氷が輸入されていたが、
ボストンの氷は横浜まで長時間掛かるため高価な氷とされていた。
その氷で元町周辺の居留地で商売をしていた外国人も居たほどである。
そして、函館からの氷は、頻繁な外国船の出入と言う海運の利便さが大きく横浜や東京に輸入された。
日本人では中川嘉兵衛が1864年の11月に「氷売り込み」を出願し、
氷の切り出しから各地で試みて失敗したが、1869年に函館氷の出荷に
初めて成功する。日本の機械製氷の歴史は福沢諭吉が熱を出したことが始まりとされている。
また、1879年には元町周辺にオランダ人ストルネブリンクが経営していた横浜初めての機会製氷工場が創業した。その後も経営者は何度か変わったが、関東大震災の1923年まで経営を続けていた。

ヘボン博士(ローマ字のヘボン)邸跡

1859年(安政6年)にJ.Cヘボンが医療・伝道活動を目的として来航した。ヘボンは施療事業と共に日本語の研究を行って日本で最初の和英辞典だった「和英語林集成」を編修し、「美国平文」と言う名前で出版した。これが日本最初の和英辞典であった。日本語を転写することによって採用したのが英語式の転写方法であり、また、辞典が普及すると同時にヘボンによって書かれた文字「ヘボン式ローマ字」も広まっていった。ヘボンは辞典だけではなく旧約聖書や新約聖書の和訳についても活躍を治めた。また、キリスト教主義教育を日本に根付かせることを望み、1863年(文久3年)に横浜にヘボン塾を開設した。その後のヘボン塾は、他のプロテスタント・ミッション各派学校と連携し、1887年(明治20年)に明治学院として統合し、明治学院初代総理に就任した。

増徳院(薬師堂)


元町1丁目13番地、現在の元町プラザの場所にあった寺院。古くから町(まち)の人たちの信仰の中心的存在だった。震災後、1928年(昭和3年)に南区平楽103に再建し、戦災を経てそのほとんどが平楽へ移転した。現在元町にあるのは、1972年(昭和47年)に再建された薬師堂のみ。大同年間(9世紀初頭)の創立といわれていますが、記録は残っていない。
 ペリー艦隊のミシシッピ号の船員の葬式が行われたときは、葬儀の列は街中を太鼓(たいこ)の音に合わせて行進し、住民達は家や店から出てきて、見物(けんしたとされる。そのとき埋葬された場所は増徳院の境内の丘で、現在の外国人墓地の一部で最も古いエリアとなる。

パン発祥の地(ウチキベーカリー)


日本で始めて、パンの製造を始めたの日本人である。
フランス軍艦ドルドーニュ号乗り組みのコックから手ほどきを受け、
日本の小麦粉で「ゆでだんご」のようなパンを焼いた。
1860年、「お貸長屋」(現在の横浜開港資料館の辺り)で、
「パンのような焼饅頭のようなものパン」を焼き、「和風パン屋」として
開業する。その日本人が内海兵吉であると言われている。
1861年(文久元年)に開業するが、11月グッドマンの家が全焼し、
翌年2月に「横浜最初のヨーロッパ風パン屋」を新規開店する。
1864年、グッドマンは病気のため一時日本を離れるので、その間、ロバートクラークに任せた。
グッドマンは1865年に再び来日し、営業を再開している。
1865年(慶応元年)8月、ロバートクラークは横浜で「横浜ベイカリー」を開き、35年パンを焼き続けた。その後、「横浜ベイカリー」は色々な説があるが、1875年(明治8年)に打木彦太郎が継承したのである。その後、宇千喜麺麭製作所と称する。 そのパン屋が、元町にあり、今も営業している「ヨコハマベーカリーウチキ商店」である。

元町公園 塗装発祥の地


1854年(嘉永7年)2月13日、ペリー再来航の際、林大学頭が江戸の
渋塗職人町田辰五郎に通商交渉を行う横浜応接所
(現在の横浜外交資料館付近)建物外部のペンキ塗装を命じて、
これがきっかけで、町田辰五郎は幕府からペンキの一手取り扱いと、
外国公館(領事館・公使館)塗装の特権を与えられた。
1856年(安政3年)にアメリカ総領事ハリスは、
神奈川宿本覚寺を領事館と定め、本覚寺をすべて白ペンキで塗った。これを機に、本覚寺に「全国塗装業者合同慰霊碑」が建立された。 1865年(慶応元年)に大工のT.S.スミスが塗装業を始めた。日本人では伊藤幸太郎と桜井鉄五郎が
ペンキ塗装業を始め、1872年(明治5年)鉄道建設の停車場の工事を請け負った。
長崎の湊公園には、「近代塗装伝来之碑」があり、碑文によれば、本格的なペイント塗装は、
幕末から明治初年にかけて導入された洋風建築に始まり、18世紀半ば頃には、すでにペイント塗装が行われていた。 また、元町公園にある我国塗装発祥地いわゆるペンキ発祥の記念碑と、元町公園とは何ら関係がない為、何故元町公園に建てられたか、いまだに分かっていない。

ジェラール水屋敷地下水槽


幕末に来日したフランス人実業家アルフレッド・ジェラールは
山手居留地77番・78番に居を構え、谷戸に湧き出る豊富な湧水を
利用して横浜港に出入りする船舶へ給水する事業を始めた。
「水屋敷」はここに由来している、この水屋敷や工場の遺構として
煉瓦造貯水槽が残っている。
元町公園内にはもう一つの煉瓦造貯水槽が確認されている。
またジェラールは蒸気機関を導入した工場でフランス瓦や煉瓦・土管・タイルなどを製造・販売した。

元町公園 大正活映撮影所跡


大正活動映画(たいしょう かつどうえいが、のちに大正活映、1920年4月 設立 - 1922年 製作中止 - 1927年5月 解散)は、かつて横浜に存在した映画会社である。大正時代の横浜山下町に本社と撮影所を構え、無声映画を製作および配給した。ハリウッド俳優のトーマス・栗原と作家の谷崎潤一郎が関わったことで知られる。製作会社としては短命に終わったが、多くの人材を輩出した。
大正9年(1920)東洋汽船社長で浅野財閥総帥浅野総一郎の次男、浅野良三により、大正活映撮影所がここに作られたが3年ほどで解散した。

バプテスト教会発祥の地


明治7年(1874年)、坂の上(山手町75 番地)にバプテスト自由伝道協会の
ネーサン・ブラウンが教会堂を建て布教の拠点としましたが、
火災で焼失しその後、1873(明治6)年に宣教師ブラウン、
ゴーブルなどによって横浜第一バプテスト教会が建てられ、
明治27年(1894年)ベンネット(関東学院初代校長)が
横浜第1バプテスト教会と称し、教会堂を坂の途中(現在 元町2丁目80番地)に移転しました。
大正12年(1923年)寿町に移転し、跡地に「日本バプ テスト発祥の地」の記念碑を建立しました。

代官屋敷


幕末開港前後、横浜村名主、当主石川徳右衛門は、
日米和親条約締結の為応接場の設営、食料、
その他の設備一切を掌りました。
嘉永7年(1854 年)4月6日ペリーが横浜村に上陸し、
住民の暮らしぶりを視察した折に屋敷を訪れ、
徳右衛門が供応した様子が、ペリー提督日本遠征記,に記されている、 その後徳衛門は横浜町惣年寄となり
町政を担当するようになった、
代官坂の名は坂の途中にある横浜村の元名主石川家に由来している。
横浜村周辺は、開港期には神奈川奉行預かりとなり石川家は代官ではなかつたが、
ペリーが横浜村名主を町長と考え表啓訪問した為に呼ばれるようなったなどのいくつかの
言い伝えがある。それで明治20年代から、石川家が代官屋敷、
旧箕輪坂が代官坂と呼ばれる様になった。
石川家は石川町の町名の由来でもある。

百段坂と百段坂公園


前田橋の正面斜面に百段の坂があり坂の上には浅間神社があったが
大震災で倒壊した。震災後は神社も坂も再建されず、
現在は高田坂の途中に百段坂公園が作られ、隠れた絶景ポイントの
一つとなっている。昔は公園脇の土手でヨモギが取れ、春の草団子として
知られていた。

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2009年12月24日木曜日

汐汲み坂

昔はこの川が入り江になっていて、坂を下がって村人が塩水を汲みに来たことに由来する

下長屋跡(元町仲通り、元町5丁目土方坂)


唐人お吉(1841~1891)が元町で過ごした数年間の、
おそらく生涯を通じて もっとも幸せだった日々の話である。
お吉には鶴松という4歳年上の大工の恋人がいた。
鶴松は江戸で幕府にいったんは武士に取り立てられたものの、
明治維新で幕府そのもの が崩壊、職を失うと、新たな職を求めて新開地横浜にやってきた。
このとき、鶴松が住んだ のが下田出身者が多く住む元町5丁目土方坂の「下田長屋」であった。そして、近くの造船所(吉浜町) で船大工の仕事についた