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2009年12月25日金曜日

SJIS : セント・ジョセフ・カレッジ跡


セント・ジョセフ・カレッジ(Saint Joseph College)は、山手にかつて存在したインターナショナルスクール。
1859年の横浜開港に伴い、山下町・山手周辺に外国人居留地が、
関内にはその居留者の業務地が設けられ、これらの地に暮らす
外国人子弟の教育施設として、1901年にカトリック教会のマリア会に
よって、幼稚園から高校までを備えた英語教育主体の
インターナショナルスクールとして開校された。

ベーリックホール


ベーリック・ホールはセント・ジョセフ校の牧師館や
寄宿舎として使われたことで知られ、現存する山手の旧外人住宅の
中ではもっとも大きい建物。
建築家J.H.モーガンの代表作のひとつで、
スパニッシュ様式で多彩な外部装飾をもち、
室内もバンケットルームに使われた大広間が設けられている。
建築主のB.R.ベーリック氏はイギリス人で1898年来日し、
横浜とロンドンの両都市に住みながら貿易商として活躍した

山手234番館


外国人向け共同住宅(アパートメントハウス)として
建築されたこの建物は、往時のモダンな生活様式が伺える。
また洋風住宅として標準的な簡素な作りとなっており、
関東大震災後の洋風住宅意匠の典型と言える。

元町公園


元町公園は1930年(昭和5)に開園した由緒ある公園。
開港期のフランス人商人ジェラールが山手の湧き水を寄港する船に
給水する事業を興し「水屋敷」と呼ばれ、
後にジェラール瓦と呼ばれる西洋瓦やレンガを製造する工場を
1874年(明治6)に建て「煉瓦屋敷」とも呼ばた。
「煉瓦屋敷」と山手80番館も関東大震災で壊れその遺構が今も
元町公園に残っている。
大正に入り大正活映撮影所が作られましたが3年ほどで解散した。
跡地は元々水が豊富だったこともあり1928年(昭和3)にプールが作られ、
1930年(昭和5)に公園として開園した。1936年(昭和11)幻の東京オリンピック(1940、皇紀2600)を
目指した飛び込み台付きオリンピック級プールに改修され、
戦後に数度の改修を受けて今に至っている。またプールの裏手には市営の弓道場がある。

山手資料館


1909(明治42)年に建てられ1977年(昭和52)この地に移築された西洋館で、
明治から大正時代の横浜の日常的な資料を集めた資料館。
開港当時の様子を描いた錦絵(横浜絵)やマンガの原型と言われるポンチ絵から、
日用品としてのギヤマン、オルガン、蓄音機や開港当時の生活を伝える家具や
食器などが収集されている。
1923年(大正12)の関東大震災の時に、横浜の木造洋館の中でこれだけが
唯一倒壊/焼失を免れた貴重な建物。

アメリカ山公園


アメリカ山公園は、1858年の日米修好通商条約締結後
150年となる2009年、開港150周年を記念した施設として
全国初の「立体都市公園制度」を活用して造成され開園した。
ここ山手97番地は明治期初頭の米国公使館ゆかりの土地であり、
太平洋戦争後、米軍の施設用地として利用され1971年に返還された
歴史を持つことから「アメリカ山」と名付けられた。
みなとみらい線「元町中華街駅」駅舎を4階建てに増築し、
エスカレーターやエレベーターなどの昇降施設を設置して、
18mの高低差がある元町地区と山手地区のバリアフリー化を図りアメリカ山公園口(6番口)が新設された。

横浜外国人墓地


ペリーは開国交渉のため、1854年(嘉永7年)に再来日した。
その時に、ミシシッピー号の乗組員ロバート・ウィリアムズという24歳の
二等水兵が墜死した。
この水兵の埋葬地と共にアメリカ人用の墓地を「海の見える地」を
条件に、ペリーは幕府に要求した。
幕府は横浜村の増徳院(現在の元町一丁目から入った所にあったが
大震災で全焼した)の境内の一部を提供した。
ウィリアムズはここに埋葬された。
これが横浜山手の外国人墓地の始まりとなった。
日米和親条約によって、伊豆下田の玉泉寺に米国人用墓地が作られることになり、
ウィリアムズの遺体はこの3ヶ月後に移された。
現在、玉泉寺にはペリー艦隊の日本遠征中に死亡した水兵らアメリカ人5名、ロシア人3名が
埋葬されている。
関東大震災の後に増徳院も平楽に移転して、横浜外国人墓地は現在のような
22区5600坪(約18,500㎡)の墓域となった。
また関東大震災により、大半が焼失した埋葬記録も、
最近になって4800柱を越す記録となったが、墓石数は2500程度となっている。

岩崎博物館(ゲーテ座)


もともとは(1870/明治3年創立) の創始者オランダ人
ヘフトにより横浜本町通りに建てられた商業劇場ゲーテ座が
オリジナルです。
続いて横浜在住外国人達の発案のもとにフランス人建築家サルダの
設計によって1885(明治18)年に現在の位置にゲーテ座が建てられた。
しかし1923(大正12)年、関東大震災によってこのゲーテ座は崩壊し
近年まで資料すら見つからない状態でした。
この跡地に1980(昭和55) 年、学校法人岩崎学園の創立50周年記念事業の一貫として、
服飾関係の資料、収集品を中心に展示する博物館として復元されたもの。

県立近代文学館

県立神奈川近代文学館は港の見える丘公園内に、
財団法人神奈川文学振興会により1984年(昭和59)建設された。
神奈川県は開港以来歴史の中でとりわけ多くの文人に親しまれた土地柄で、
神奈川県にゆかりの深い文豪である夏目漱石、
大彿次郎、大岡昇平や、日本の文壇を彩った文人として
著名な芥川龍之介、川端康成、谷崎潤一郎、三島由紀夫などの資料を収集、
保管している。

大佛次郎記念館

横浜に生まれ「鞍馬天狗」、「パリ燃ゆ」、『霧笛』、『幻燈』など、
文明開化の横浜を描いた作家で、横浜と猫をこよなく愛し
昭和48年に亡くなった大佛次郎(おさらぎじろう)の資料を集めた記念館。 蔵書や直筆原稿などの展示や業績、生涯を紹介しており、
2階には鎌倉の書斎と寝室が復元されている。

山手111番館


この住宅は東側に傾斜した地形を巧みに利用して建てられ、
西側の正面から見ると2階建てになっている。
設計者は建築家モーガンで小規模ながら豊かな空間が創り出されています。 建築主はラフィンと言われ外人両替商でした。

港の見える丘公園


1959年(昭和34)当時の横浜市長半井氏により山手地区
風致公園として開園した。
港の見える丘公園は開港当時外国人居留地であり、
横浜開港期に現在の港の見える丘公園南東側(トワンテ山)あたりに
駐屯したイギリス軍と、北西側の「フランス山」に駐屯したフランス軍とが
隣り合い互いに張合っていたことで知られている。
イギリス館、大佛次郎記念館、神奈川近代文学館、バラ園などの
付帯施設が次々とオープンし現在の港見える丘公園を形作っている。
一時期、樹木が茂りすぎ「港の見えない丘」と言われたことから植裁を中心に大改造された。

フランス山 フランス領事館跡


幕末時代から明治時代までフランス軍が駐屯していた場所として
フランス山と名付け、1894年(明治27年)にフランス人サルダと言う
建築家がフランス領事官邸を設計・建築し、
1896年(明治29年)に「極東一のすばらしい名建築のひとつ」
(フランス領事から本省あて報告書)」が完成した。
外観からも煉瓦造り二階建てのフランス領事館は華麗な意匠の
堂々としたものだった。
だが、領事館と領事官邸は、1923年(大正12年)の
関東大震災で倒壊してしまった。  
その後、1930年(昭和5年)にスイスから来た建築家マックス・ヒンデルの手によって、
倒壊された領事官邸が旧領事官邸跡に再建されたが、
1947年(昭和22年)の不審火により全面焼失してしまった。マックス・ヒンデルが建築した領事官邸の
構造は建築家サルダが建築したものと違って、
1階部分が煉瓦で造られ2階3階は木で造られていた為、火が回るのが早かった。
今現在は、港の見える丘公園の中の一区間のフランス山にフランス領事館跡地が残っている。
今現在のフランス領事館は場所を転々として、南麻布に場所を移動している。
 また、フランス領事館遺構の傍に風車が建っているが、これはまだフランス領事館が建っていた頃に井戸水を汲み上げるために用いられたものである。
当時の山手はまだ上水道が出来ていなく、経済面のことを考え井戸水汲み上げ用の風車が
出来たとされる。 今現在の風車は再現されたものだが、辺りを見回してみると、その当時の歴史を
感じさせられるほどのものがある。またそこから港の見える丘公園方面へ向かっていく途中に、
煉瓦造りの井戸遺構がある。

横浜ボウリング発祥の碑


861年(文久元年)6月22日、日本で最初にボウリングが伝わったのは
長崎である。 当時長崎で発行された社交サロン店主
ヘンリーギブソンが新装開店を告知した広告に記録が残っている。
これが日本で最初のボウリング場である。ボウリング場はスナックバー風の設備も整っていて、
外国人たちの社交の場とレクリェーションの場となっていたのである。
現在、これを記念して、6月22日が「ボウリングの日」とされている。
2番目にボウリング場ができたのは、3年後の1864年(元治元年)、
横浜である。 今現在、開港当時外国人居留地であったフランス山公園に石碑がある。
これは平成7年に、横浜初としての「横浜ボウリング発祥の碑」が建てられた。

フランス領事館メダリオン (RF : Republique Francaise)


今の元町商店街から港の見える丘公園へ向かう途中にフランス山と
呼ばれている1863年頃からフランス軍が駐屯していた場所でもある。
そこには、前にも紹介したかもしれないが、旧 フランス領事館跡があり、
その付近には橋が掛かっている。フランス領事館付近を再整備した際に
ジェラール瓦やフランス領事館の外壁装飾に使われていたと見られる
メダリオンが発掘された。
メダリオンとは、建物の左右の外壁に使用する飾りのことを主に言う。
フランス領事館のメダリオンは幾つも使用されていたとされているが、
関東大震災の被害で紛失し、今は一つだけフランス橋(みなとみらい線元町出口から降りて右手奥に掛かっている)に展示されている。

機械製氷発祥の地


横浜村が開港してからまもなく横浜港に氷が輸入されてきた。
また当初の氷はボストンと函館の氷が輸入されていたが、
ボストンの氷は横浜まで長時間掛かるため高価な氷とされていた。
その氷で元町周辺の居留地で商売をしていた外国人も居たほどである。
そして、函館からの氷は、頻繁な外国船の出入と言う海運の利便さが大きく横浜や東京に輸入された。
日本人では中川嘉兵衛が1864年の11月に「氷売り込み」を出願し、
氷の切り出しから各地で試みて失敗したが、1869年に函館氷の出荷に
初めて成功する。日本の機械製氷の歴史は福沢諭吉が熱を出したことが始まりとされている。
また、1879年には元町周辺にオランダ人ストルネブリンクが経営していた横浜初めての機会製氷工場が創業した。その後も経営者は何度か変わったが、関東大震災の1923年まで経営を続けていた。

増徳院(薬師堂)


元町1丁目13番地、現在の元町プラザの場所にあった寺院。古くから町(まち)の人たちの信仰の中心的存在だった。震災後、1928年(昭和3年)に南区平楽103に再建し、戦災を経てそのほとんどが平楽へ移転した。現在元町にあるのは、1972年(昭和47年)に再建された薬師堂のみ。大同年間(9世紀初頭)の創立といわれていますが、記録は残っていない。
 ペリー艦隊のミシシッピ号の船員の葬式が行われたときは、葬儀の列は街中を太鼓(たいこ)の音に合わせて行進し、住民達は家や店から出てきて、見物(けんしたとされる。そのとき埋葬された場所は増徳院の境内の丘で、現在の外国人墓地の一部で最も古いエリアとなる。

パン発祥の地(ウチキベーカリー)


日本で始めて、パンの製造を始めたの日本人である。
フランス軍艦ドルドーニュ号乗り組みのコックから手ほどきを受け、
日本の小麦粉で「ゆでだんご」のようなパンを焼いた。
1860年、「お貸長屋」(現在の横浜開港資料館の辺り)で、
「パンのような焼饅頭のようなものパン」を焼き、「和風パン屋」として
開業する。その日本人が内海兵吉であると言われている。
1861年(文久元年)に開業するが、11月グッドマンの家が全焼し、
翌年2月に「横浜最初のヨーロッパ風パン屋」を新規開店する。
1864年、グッドマンは病気のため一時日本を離れるので、その間、ロバートクラークに任せた。
グッドマンは1865年に再び来日し、営業を再開している。
1865年(慶応元年)8月、ロバートクラークは横浜で「横浜ベイカリー」を開き、35年パンを焼き続けた。その後、「横浜ベイカリー」は色々な説があるが、1875年(明治8年)に打木彦太郎が継承したのである。その後、宇千喜麺麭製作所と称する。 そのパン屋が、元町にあり、今も営業している「ヨコハマベーカリーウチキ商店」である。

元町公園 塗装発祥の地


1854年(嘉永7年)2月13日、ペリー再来航の際、林大学頭が江戸の
渋塗職人町田辰五郎に通商交渉を行う横浜応接所
(現在の横浜外交資料館付近)建物外部のペンキ塗装を命じて、
これがきっかけで、町田辰五郎は幕府からペンキの一手取り扱いと、
外国公館(領事館・公使館)塗装の特権を与えられた。
1856年(安政3年)にアメリカ総領事ハリスは、
神奈川宿本覚寺を領事館と定め、本覚寺をすべて白ペンキで塗った。これを機に、本覚寺に「全国塗装業者合同慰霊碑」が建立された。 1865年(慶応元年)に大工のT.S.スミスが塗装業を始めた。日本人では伊藤幸太郎と桜井鉄五郎が
ペンキ塗装業を始め、1872年(明治5年)鉄道建設の停車場の工事を請け負った。
長崎の湊公園には、「近代塗装伝来之碑」があり、碑文によれば、本格的なペイント塗装は、
幕末から明治初年にかけて導入された洋風建築に始まり、18世紀半ば頃には、すでにペイント塗装が行われていた。 また、元町公園にある我国塗装発祥地いわゆるペンキ発祥の記念碑と、元町公園とは何ら関係がない為、何故元町公園に建てられたか、いまだに分かっていない。

ジェラール水屋敷地下水槽


幕末に来日したフランス人実業家アルフレッド・ジェラールは
山手居留地77番・78番に居を構え、谷戸に湧き出る豊富な湧水を
利用して横浜港に出入りする船舶へ給水する事業を始めた。
「水屋敷」はここに由来している、この水屋敷や工場の遺構として
煉瓦造貯水槽が残っている。
元町公園内にはもう一つの煉瓦造貯水槽が確認されている。
またジェラールは蒸気機関を導入した工場でフランス瓦や煉瓦・土管・タイルなどを製造・販売した。